かならず幸せになれるいきもの

特別支援×ブリーフセラピー×アドラー心理学

『キャラ化する/される子どもたち』―排除型社会における新たな人間像―#3

 

www.happypenguin.netのつづき

 

第三章 キャラ社会のセキュリティ感覚

ここまでの振り返り

第一章

排除とフラット化の人間関係がある!?コミュニケーション能力が求められすぎ!?

 

第二章

「キャラ(固定的な自己)」による

人間関係(外キャラ)

人間像(自己像≒内キャラ)

で考えると理解しやすい

 

「承認欲求を満たしたい気持ち」

「コミュニケーション能力を求められるストレス」

から

解放されるために、フラット化した人間関係をつくるんだ!!

 

第三章

今回(キャラ化って若い人たちだけに起こっていることなの?大人は?)


第三章の概要

  • 友だち関係だけでなく、親子関係にも摩擦のないフラット化が起こっている
  • 子どもの不遇は、自身の不遇にも感じられる
    子どもに自身の人生が依存し一体と感じられるため
  • 価値観の多元化は、画一的な学校へのクレームにつながる
    教育は、新たに能力を育んでいく「指導」ではなく、生まれもった素質を開花させるための「支援」とみなされてしまう
    モンスターペアレントが生まれる?(背景には、事件から自分の子もそうならないかといった不安に煽られた親世代というのがあるかもしれない)
    モンスターという言い方は、教師からすれば、同じような排除を行ってはいないか?相手を異物とみなすことを、教師もしてしまってはいないか?
  • 大人は子どもをキャラ化している。
    「ある子ども」の人生を個人的な資質と捉えて傍観し、うちとは違うと感じて安全圏にいこうとする
    たとえば、犯罪者のもつ人格特性を資質のような個人特性として捉える傾向が強まり、加害少年の加害性も際立つ
  • 個人特性を生まれもったものと捉えることで、包摂型の治安から排除型の治安へしかし、同じ環境でも犯罪をしないものもいる「やはり素質だ!」と言えるか?それでも、環境がよければ、そうした人も犯罪をしなかったのではないか。たまたま環境のおかげで犯罪者にならずにいる弱気人間も大勢いるのではないか
  • 大人の都合による子どものための子どもの環境の圏外化(ケータイの規制など)
  • 真に不気味なもの(自分とは違う存在)と対峙しなくなっていく昨今。それで、子どもたちは育つのか
  • 不気味なものは、内側から紡ぎだされていくとしても。そこにある大きな落とし穴とは(第四章へつづく)

 

1 子どもと相似化する大人の世界

若い人はこの時代の空気をもっとも色濃く体現する

親子関係にも摩擦のないフラットな関係を求める親が増えている
(友だち親子と言われるようなもの)


親も

心地よい人間関係を保っていくために、本音をぶつけあうことをできるだけ避けようとするのです。

そのため、親は「物分かりのよい親」をつねに演じようとする

また、

子どもに愛情を注ぐのと引き換えに、期待どおりの人生を歩むことを要求しているのです。

その背景にあるのは「親としての自分が評価されること」への

自尊感情を満たしたい「承認を求める」依存的な心性

一方で、学校の教師に対する批判的な態度の親が増えている

価値観が多元化し、ものごとの判断の物差しも人によって異なり

それぞれの常識が食い違うこともあるため


よって、画一的な学校へのクレームが起こるのは当然だと考えられる


子どもに依存している親は、子どものことが自身のことのように感じている

子どもの不遇は、自身の不遇にも感じられる(自分の承認欲求の駒が危機にさらされる不安から)

 

近年は、人格の陶冶を目指す場所ではなく、教育という名のサービスを提供する場として、学校を捉えている人びとも増えています。
(中略)
教育という営みは、新たに能力を育んでいく「指導」ではなく、生まれもった素質を開花させるための「支援」にすぎないと感じられるようになるでしょう。

秋葉原の無差別殺傷事件後

「自分の子どもがあんな事件を起こしたらどうしよう」といった不安にかられた親からの相談ケースが急増したそう

これも、宿命主義的な観点から事件を捉えたことによるもので

これから豊かな親子関係を築けば大丈夫とはなかなか思えないことによるもの

神戸の事件と秋葉原の事件の犯人は同世代でした

秋葉原の事件は、神戸の事件を起こした犯人のような宿命をもっているから起こった、とメディアでも取り上げられた

しかし、そうではなく、神戸の事件からくる「不安に煽られた親に『宿命主義的』な価値観」で養育された世代の事件という背景があると考えられる


学校に対して攻撃的な抗議を行い、常識外れの無理難題を学校に突きつけ

教育現場を混乱に陥れるような親を「モンスター・ペアレント」と呼ぶ

そうした中で、「あの親はモンスター・ペアレントだ」と当ててしまうことは、

その親の個人的な資質へと問題の焦点をすり替え、手早く処理してしまおうとする

といったことが起こっていないか、考える必要がある


教師も、若い人たちと同じように

排除的な人間関係の価値観をもって排除を行ってはいないか

相手を異物とみなすことを、教師もしてしまってはいないか

これが問わなければならない

 

そんな親をモンスター、すなわち化け物や怪物になぞらえる発想からは、自分たちに理解不能な主張を並べ立てる相手を、道理の通じない異物とみなして、安直に切って捨てようとする心性の広がりも感じてしまいます。

 

以前の学校は教師間の連携が強かった。

たとえば、

問題の見られる生徒に対しては、厳しく指導する教師と優しく受容する教師が役割分担し、多面的に生徒に関わっていくなかで、問題の根を解きほぐしていったのです。
しかし、近年は、教師の個人評定が進行し、かつての連携力が削がれつつあります。一つの問題に対して多くの教師が協力しあって取り組むことが困難になってきているのです。 

 

大人が承認されたいが起こるとごちゃごちゃになる。肯定的な評価がほしい

「自分のほうが正しい」「相手のほうが間違っている」と思い込んでいる点では、やたらとクレームをつけたがる親も、その存在をモンスターとみなす教師も、しょせんは同類です。どちらも相手を異物とみなしていることに違いはありません。↓

今日では、立場の異なった相手と意見を闘わせて理解しあうのではなく、異物とみなして最初から関係を断とうとする傾向が強まっているようです。

※私の考え

自分の考えを言わないか、相手の考えを聞かないかによって排除しない

承認欲求を越えて、連携して、子どもを思う

勉強によって、根拠をもって戦う

道徳と哲学で、人間としての根拠をもつ

人間として当然の、人間とは?を説いていきたい

そうして、生きるってことは楽しいってことを伝えたい

 

2 子どもをキャラ化する大人たち

犯罪者像の変化

犯罪者の人格特性を、社会生活のなかで育まれたものとして理解し、そのことに対して私たちも責任を背負おうとするのではなく、彼の個人的な資質として捉え、そこに罪の意識を共有しようとしない今日の私たちの心性が色濃く反映されているように思われます。

 

犯罪少年のキャラ化

加害少年にある被害者の役割が薄まり、被害者が純然たる被害者と認められるようになった

 

大人は子どもをキャラ化している

ある子の人生を個人的な資質と捉えて傍観し

うちとは違うと考えることで

自身や子どもの資質が否定されないように

傷つかないように安全な立場にいこうとする

その結果

子どもの資質は生まれもったものであるという考えから

治安が「包摂型」から「排除型」へ移っていく

少年司法に限らず、今日の刑事政策では厳罰化が進んでいるといわれます。しかしその内実は、厳罰を科すことで矯正の効果を高め、社会復帰を促そうとするものではなく、むしろ排除化の進行といえます。

犯罪者の特性を社会的な産物と見なすのではなく

生来的な資質とみなし、矯正不能なモンスターと捉える風潮が強まった

 

その結果

彼らを社会に包摂するのではなく

排除することで社会の治安を守ろうとする思想が広がっている

 

加害少年の中には

「育った家庭環境のすさまじい崩壊ぶり」

「そのなかで彼が受けた虐待経験」

という背景が見られることがある

しかし、そうした背景には、世間の関心が集まりにくい

 

このような意見を述べると、決まって次のような反論が加えられます。同じように劣悪な境遇を生きながらも、多くの少年たちは犯罪に手を染めない、だとしたら、やはり犯罪には個人的な資質の側面が強いのではないか、と。

このような反論に対しては、次のように問い返してみたいと思います。
そんな弱気人間であっても、周囲の環境さえ良好ならば、犯罪に手を染めずにすんだかもしれない、世の中には、幸いにも良い環境に恵まれたおかげで、たまたま犯罪者にならずにすんでいる弱き人間も大勢いるのではないか、と。

(私は、「キャラ化」の中で、この文が一番好きです。大人が醸し出す「環境」こそ大きな責任があるのだ、と強く感じることができます。)


ピアノの才能があっても、ピアノに出あわなければその才能に意味がないように、

犯罪責任も個人と社会の双方に求められるべきでしょう。

 

大人の都合による子どものための子どもの環境の圏外化
ケータイ規制や有害サイト規制法など
こうした動きは

有害性の中身について子どもたち自身に考える機会を与えることなく、認知の対象に入らないように圏外へ押し出してしまうことです。

被害に合う子を思えば必要な措置ではあるが

こうした

「教育的」措置は、心地よい類友だけとつながろうとする子どもたち自身の人間関係のフィルタリングと、いったいどこが違うといえるでしょうか。
そもそも私たちは、セキュリティを強化しさえすれば、安全で快適な生活を享受できるのでしょうか。

どんな集まりであっても、似通ったものどうしが寄り固まって、そこで過剰な配慮が繰り広げられていくと、関係の維持は重くなってしまいがちです。そして、そのガス抜きのために、内部にいじめが起きることもあります。

いくら完璧なセキュリティの壁を周囲に張りめぐらしても、真に不気味で異質なものはその内部から紡ぎ出されていきます。

自分とは違うものを排除することで

摩擦のない生活を求め

「真に不気味なもの」と対峙しなくなっていく昨今


しかし、それで、子どもたちは健全に成長していくのか

不気味なものが内側から紡ぎ出されていくとしても……


そこにある「大きな落とし穴」について

 

次回、最後の章に続きます。

 

所感

ここまでの個人的なまとめ

大人の子ども化

大人も子どもと同じように

「肯定的な評価を求め」

「承認欲求を満たそうとする」

ことが書かれていました

 

「承認欲求」を人質に取られると

目的を見失ってしまうことがあるのだと感じます

 

たとえば、親や教師など

子どもに携わる人間の第一の目的は

子どもがよりよく育ち、よりよく未来で活躍できるように成長を促すこと

でしょう

主語は「子どもが」であって

大人が思う子どもがではない

というところが大切なポイントです

大人が考えてることと、子どもが思うことのギャップ

大人が子どものように「自分本位な承認欲求」のための思考を展開し

子どもの成長を見つめているとき

子どもと大人の間にはギャップが生まれる

 

ここには子どもとのギャップがある

 ある少年クライエントから、「先生、理解のある両親を持つと、けっこう大変ですよ」と言われたことがあります。親からへんに理解を持たれてしまうから、感情の高揚にふさわしい暴れ方ができないというわけです。

『父親の力 母親の力「イエ」を出て「家」に帰る』河合隼雄 P152より

大人が良かれと思って(承認を得るために)やっていることと

子どもが本当は望んでいないかもしれないということのズレが

歪な人間像を生むことにつながっていると考えられる

 

大人こそ、短絡的な承認にのまれてしまっては

後世もろともつまずいてしまうかもしれないのです

インクルーシブ教育との関連

「違い」を排除するかどうかの視点は

「インクルーシブ教育」ともかかわってくる

 

私は「違いにイイネ!」という言葉が流行ると

教室の雰囲気も変わるのかな、と思ってる

 

現場は画一的な要素が多いからこそ

「できる・できない」に拠らないで

「できなかった」としても、その子は何もかもができないわけではないでしょうし

それは「違い」でしかない

「良さ」とは相対的なものであって

「できたり・できなかったり」があるから

「どの子ども」も輝ける

 

ただし「できなくていい」ということとは、もちろん話が違う

問題は、そこを区別した指導ができるかという問いだ

 

大切なのは

じゃあ、子ども自身が「できようとしているか」という話だ

ずっと言わている「プロセス・過程をほめる」ということと一致する

大人次第で子どもは如何様にも育つ

そして、一番大切なのは

そうした大人の醸し出す「価値観」次第で

子どもをよりよく成長させることができるということです

 

現場に「宿命主義的」な人間観をもっている人が多いと

苦しい子どももいる

 

誰が正しいということは無いと思うのを前提として(それでは、排除的な人間観と変わりません)

大人たちが「違いを認める」姿勢が必要になってくるだろう


終わりの方に書かれているように

「個人」と「社会」の観点から人間を見ることが大切なのはその通りだ

「どちらか」の見方だけを採用するということではない

そして、近頃何度も出てくるワードの通り

「協働・連携」することで

確かに子どもがよりよく成長するのだろう


当然、それが職員室でできてから、子どもに降ろすべきだが、実際は。。。


私たちの「人間観」が強く問われているのだと感じたところで

 

また、次回

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キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像 (岩波ブックレット)

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父親の力 母親の力―「イエ」を出て「家」に帰る (講談社+α新書)

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