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『キャラ化する/される子どもたち』―排除型社会における新たな人間像―#4


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 のつづき

 

第四章 キャラ化した子どもたちの行方

ここまで

第一章

排除とフラット化の人間関係がある!?コミュニケーション能力が求められすぎ!?

 

第二章

「キャラ(固定的な自己)」による

人間関係(外キャラ)

人間像(自己像≒内キャラ)

で考えると理解しやすい


「承認欲求を満たしたい気持ち」

「コミュニケーション能力を求められるストレス」

から解放されるために、フラット化した人間関係をつくるんだ!!

 

第三章

大人も

「人間関係のフラット化」

「宿命主義的」

「人間の資質は固定的なもの(キャラ)」

「排除的」

といった人間像をもっている


第四章(今回)

異質なものは内側から紡ぎ出される?!

そこにある大きな落とし穴とは???

(まとめの章です)

概観

異質な人間を圏外へ追いやり

同質とだけつながり閉塞化するコミュニケーション

 

携帯があって、自由につながれるはずだからこそ

誰からも着信がないことが(携帯があるからこそ)逆に自己の疎外感を強める


キャラ化した自己が傷つくと

いったん転んだ人生の先にはもう何もないと思い込んでしまいがちになる

現在の自分の姿に本質的なものを見たような気になってしまうため

理想とは異なる「不気味な自分」と出会ってしまったとき

どう自分を受け入れていくのか

自信のなさの先にあるのは

理想と違う異質な自分と出会ったときの破滅
異質な人間との付き合いを通じて

実は不本意な自分、異質な自分との付き合い方も

学んでいたのではないか

雑多な人間との出会いを意図的に設けていかないといけないのかもしれない

「不気味な自分」と向き合う力をどうやって身に付けるか
親は、もっとも身近な異質だったが、同質化してしまっている

目先の安心のために、外部から自分を閉ざすのではなく

世界へ向けて開放していくこと


キャラに囚われずに目を見開いていけば

身近な世界の中にも異質な要素を見出せる

コミュニケーショントレーニングによる

コミュニケーションの能力を身に付けることではなく

実際にコミュニケーション能力を発揮できる場

体験できる場の必要性

排除型社会の仕組みとそれを支える心性を克服できなければ

いずれ最後には、自分自身を自分から排除せざるを得ない結末が待っている

 

閉塞化するコミュニケーション

昔:家の電話のときは、好きな人に連絡するのも他者を介する可能性があってドキドキだった

 

現代:時間も空間も越えて、不都合なコミュニケーションを避けてつながることができる

 

近代の技術は、異質な人びとがつながることを可能にしたのと同時に

同質な人びとが互いにつながりあうことを容易にする手段としても働いている

 

しかし、たとえば携帯電話などは、自由に常時接続できるからこそ

連絡がないことは自己の疎外感を強めるツールになりうる

 

自己肯定感の揺らぎを手っ取りばやく解消しようとして、同質な人間だけで固まってしまいがちになっているからです。
その傾向にあらがい、人間関係を異質な他者へと広げていく手段ではなく、むしろその関係の狭小化をさらに促進する手段として、ケータイを用いる傾向が強まっているからです。

 

フィルタリングはさらにその傾向を強めると考えられる。

 

秋葉原事件:犯行予告の読み手として想定されていたのは、ごく狭いトライブ内の人々


グリコ・森永事件:犯行予告の投函先は、警察やマスコミだった

今日では、当時と比べてメッセージを伝達するチャンネルは大幅に拡大したのに、その受け手として想定される範囲は逆に狭まっているのです。 

 

キャラ化した自己が傷ついたとき

秋葉原事件の青年や土浦で事件を起こした青年らは

高校の後「望む進学ができず、また定職につけなかった」

二人に共通するのは、自己破滅への願望だそうです

 

彼らにとって現在の自分の姿は、かつて絵に描いたような優等生だった頃にはおそらく予想だにしなかった不本意なもので、とうてい自分でも受け入れがたいものだったのではないでしょうか。 

それでも、まだ人生にやり直しのチャンスがあると思えれば、多少なりと自尊感情を保つことも可能だったかもしれません。
しかし、宿命主義的な人生観を抱いていると、いったん転んだ人生の先にはもう何もないと思い込んでしまいがちになります。

現在の自分の姿に本質的なものを見たような気になってしまうからです。

彼らの犯行は、人生を悲観してといった単純なものではなく、自滅的な行為をとおして自分の存在を誇示し、その生の濃密さを実感したいという人生最大の賭けでもあったように思われます。


たとえ一瞬でも周囲から注目を浴びたい。

生の希薄さを帳消しにして、自らのキャラを際立たせたい

このような「自己肯定感の危機」が、日本の中高生全体に見受けられる

「確固たる自信のなさ」の蔓延

若い人たちの、現在の自分の絶対視

生まれもった自分のキャラと感じているところ

こうした考えは、いまの自分の姿はそのまま将来も同じに違いないという確固たる信念を芽生えさせる

とりあえず何かを実行に移しているうちに新しい世界が開けてくるかもしれないし、あるいは自分も変わっていくかもいしれないといった発想が、ここから生まれてくるのは困難なことのように思われます。

しかし、長い人生のなかでつまずくことは、事件を起こした青年たちだけでなく、どこの誰にでも起こりうるものです。不気味で異質なものは、多かれ少なかれ誰の中にも潜んでいます

私たちは、自らの内部に圏外を併せもっているのです。そのトロイの木馬の扉がいつ開かれるかは誰にも予測できませんし、日常生活の圏外に対してセキュリティをいくら強化しようと、またその圏外への監視の目をいくら緻密化しようと、この内なる圏外からの逃げ道もありません。

そうだとしたら、自分にとって不気味なもの、異質なものを圏外へと追いやるのではなく、むしろその異質さと折り合いをつけつつ、いかに生きていくべきなのか、私たちにはその知恵が問われていることになります。

 

そうして、上辺を取り繕うような希望や癒しの言葉に逃げるのではなく

押しつぶされそうな不安にあえて踏みとどまり

その受け入れがたい自分を受け入れていくにはどうすればよいのか

不都合な人間、向こうから迫ってくる異質な人間との付きあいを通じて、じつは不本意な自分、異質な自分との付き合い方も、否応なく学ばされていたのではないでしょうか。

 

「不気味な自分」への耐性力にもなりうる

同質な類友の中で、自分が受け入れがたい存在になったとき

その自分は仲間からも受け入れがたい存在とみなされ

圏外化の対象とされてしまう

その仲間は自分の分身と同じだからです

同質な人間関係だけをいくら増やしてみたところで、いざというときのセーフティ・ネットにはならないのです。

 

私たちは、他者から受け入れられているという実感がないと

他者の視点から自分を相対化して眺めることも難しくなる


他者に対する不寛容な態度は、自分自身に対する不寛容さをもたらしてしまう

人間関係への強迫観念から解放され、真に自己の安定を得るためには、たとえ一時的には自己肯定感が揺らごうとも、異質な他者とも付きあっていかなければなりません。
もはや普遍的な価値の物差しを内面にもちえない現代人は、そうやって多種多様な人間どうしのネットワークの網の目のなかに、自分肯定の基盤を見つけていくしかないのです。

雑多な人間と出会う機会を意図的にでも設けていかないと自己の耐性力も育ちにくい時代なのかもしれません。

「不気味な自分」と向きあう力

 本来、自分とは想像する以上に意外性を秘めた存在のはずです。

自分とは固定的なものではないはず

現実の自分が、期待するイメージと完全に調和することはありえません。

 これは、自尊感情の話でも(デニス・ローレンスの本でも何度も)出てくる

 

そもそも自己とは、対人関係のなかで構築されていくものです。
だからこそ、それは可塑的なものなのです。

現在「不気味な自分」と向き合い、その生きづらさに悩んでいる人たちには、そして、その原因を自らの内に求めようとし、自己のキャラ化に走ろうとしている人たちには、そのまなざしを自らの内部へ向けるのではなく、むしろ外部へ向けてもらいたいと思います。 

事件後「自分も被害者」になってみたいという子どもが目につくようになる

しかし、仲間は傷つけたくないし、誰も傷つけたくもない

仲間内には葛藤を持ち込みたくない

そこだけが、自己肯定感を得る場だから

 

また、親たちは我が子が被害者になるかもしれないと不安になった

できるだけ子どもたちを安全圏内へと囲い込み、セキュリティを強化して純粋培養しようとしてきました。しかし、その過剰な介入こそが、じつは自己の耐性力を我が子から奪ってきたことに気づくべきです。 

しかも、子どもにとって親はもっとも身近にいる異質な存在のはずですが、今日の親たちは子どもと一体的な関係になってしまっています。 

 

異質な他者を圏外化せず、積極的に心を開いていくにはどうすればいいのか

新自由主義の浸透によって、一面的な自己責任のかけ声の下に、連帯の精神だけでなく、共生の基盤すらも根こそぎ奪われてきました。
流動性を増す社会のなかで価値観も多元化し、多様な生き方が認められるようになったのに、いや、だからこそ、確固たる拠り所のない存在論的な不安から逃れようとして、付き合う相手をキャラ化して固定し、そして自分自身もキャラ化して固定し、許容しうる人間の幅を極端に狭く見積もるようになっています。

人生に新たな希望を見出すためには、多種多様な人たちとの世代を超えた出会いと共闘がどうしても必要です。

 

見知らぬ人との出会いだけを求めなくとも

身近な関係のなかにも異質な要素は多く含まれています。

 

いま、私たちが考えるべきなのは

ゲートを異質な世界へ向けて開放していくこと

キャラに囚われずに目を見開いていけば、身近な世界のなかにも異質な要素を見出せますし、異質な世界のなかにも同質な要素があることに気づくはずです。

 

現代では、コミュニケーションが、

自己肯定感を大きく左右している

 

コミュニケーショントレーニングも必要でしょうが

それだけでは、問題の根本的な解決には至らない

間接自殺の亜種ともいうべき一連の無差別殺傷事件が私たちに突きつけているのは、この排除型社会の仕組みとそれを支える心性を克服できなければ、いずれ最後には、自分自身を自分から排除せざるをえない結末が待っているという「宿命」なのです。

 

所感

多様化する社会に潜むトラップ

多様化で社会が読めないからこそ

人生のイレギュラーはいつでも、誰にでも、どこにでも、どんな状態でも、

起こりうる


私たちに必要な力は、そのイレギュラーへの対応力

自分勝手に他人を巻き込んで自滅しないためにも、イレギュラー対応力は大切になる

その「対応力」の構造が明かせるといいなと思うが

これはいわゆる「問題解決能力」なのだと思う

 

学校では、様々な問題について考えますが

それらは、自分の人生の問題に出くわしたときに生かされていく可能性がある

「問題解決能力」によって

自分の現在地からの「生き様」を見出せること=生きていく「希望」といえる

「問題解決能力」は「希望」だと考えられる


社会の希望性が大切

そうして、なんとか一人ひとりは希望を見出そうと頑張るわけです

しかし、多様化した社会は、また別の視点を持ち出して

希望を簡単につぶすことが考えられます

 

その意見は至極まっとうな可能性があり

一度つまずいた人は、やはり復帰できないのかもしれません

どの意見も対等化しているということが本書でも言われていた

どんな考えもつぶせる可能性がある社会なわけです


そうなれば、つぶれる意見だから悪いというわけでもないのが実際なはず

 しかし、立場による上下があり、上の人は下をつぶしやすくなる

 

そのつぶされてしまいそうな状況だからこそ

社会に希望を感じられるか、社会に「希望性」があるかが重要になってくる

日本は、セカンドチャンスが少ない国ということも見聞きしたことがあります

 

「希望」をもって生きられないことの責任を

「個人」の「対応力」のあるなしに拠るのではなく

「社会」の仕組みやムードとして変わらなければならないところがあるのが

実情のはずだ

「生の実感」について

第四章の中で

「生の濃密さの実感」

「他者から受け入れられているという実感」

という二つの「実感」が出てくる

 

この二つは、自分が生きていると感じられる「生の実感」につながるものだろう


これらの「実感」を与える役割として

どの大人も子ども全体のサポーターであってほしいし

起爆剤(モデル)となるような存在であってほしいなと思う

 

「生の実感」は

 

褒められること

「イイネ!」を出してもらえること

による

「承認欲求が満たされる実感」だと思います

 

単なるキャラではなく

多様な他者がいることによって起こる「実感」が

「自尊感情」につながって

自己をつくりあげていくことが望ましい


たくさんの他人の中に自分を置くことで

自分の存在を知ってもらい

自分の存在を規定してもらい

支えてもらう

 

この段階は「僕はいる」ってことを真実にしてもらうってことだ

 

関係の反射

「個性を煽られる」での「鏡像関係」に似ていることが

回りまわって起こるのだと考えました

誰かの存在の否定には、いつか否定が返ってくる

関係は反射してくるということです

 

どの価値観も対等であるからこそ

ある地点から「否定を出発」させた瞬間

「否定」のサイクルが巡りはじめる可能性が高いです

 

極端に言えば、誰か一人でも人間を否定してしまうことは

人間である自分を否定することにつながりかねないということです

 

個々に個々が個々を否定していく中で

間接的に多くの要素が否定されていくことになる

 

どのコミュニティもあるコミュニティからすれば否定されうる対象になり

結果、まわりまわって自分を消滅させかねないということです

 

次回、第5回【まとめ】を書いて

「キャラ化する/される」を終えたいと思います

 

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キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像 (岩波ブックレット)

キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像 (岩波ブックレット)