かならず幸せになれるいきもの

幸せな子ども時代を過ごす子どもを増殖させるための哲学と甘い毒。(旧:それでも幸せな人はいるから)

「在り方」=自分への意味づけ【LMW#4.5】

昼にうたた寝……「ハピペン」です。

 

昨日はLearn my wayでした。

 

今回は、音楽を使ったワークでした。

主役となる人が「こんな人になりたい」というイメージのある曲をもってきて、他の人が「どんな人になりたいか」を想像して付箋に書き、それをベースに対話をしていく。

 

【面白かったところ】

  • 曲を媒介としているため、相手についてのイメージを言いやすかった。抵抗処理が絶妙。
  • 相手に伝えようとすることは、結局自分がもっている感覚って気づき。自分以上の言葉は出てこない、「私が」こう感じているということが、そう感じる私がいるという「在り方」のヒントになる。
  • その人の「なりたい状態」を追体験している感覚。アナログなVRという感じがして面白かった。誰かが「やりたい!」ことは、その人が感じたいことの一旦。その人の「やりたい!」ことに参加して、その人の感覚を知ろうとすることは、上位の共感だと思った。

 

【大事だと思ったこと】

  • ジェンダーバランス。多様な視点から意見を得る時には最低限いると思った。
  • 検証。初対面のメンバーでも楽しめるか。2回目でも楽しめるか。曲を変えても楽しめるか。など、このワークが成立していると考えるには、検証がいる。
  • 「で、何のために?」。とにかく重要だと思う。出来上がった付箋とメモは、その場でこう活用していきますというものには当然ならないし、そう簡単に在り方を仮にでも固定できるものでもない。ただ、非常に海馬に入れておくに値する貴重な自分についての資料ではあった。しかし、それは、占いや心理テストの結果に似ていると思った。「あなたはこう感じられる曲が好きでした。なのでこういう人かもしれません。」ただ、いくらか主役の人を知っていること、間に対話があること、普段話さないことが思い出さないことが口をつくなど、このワークならではの結果はあったはず。このふわふわしたものを持ち帰る「価値」が気になってしまう。あえて「価値」と言うが……私たちは「何のために」そのワークをするのだろう?

 

【何のために】

とりあえず

「在り方」=自分への意味づけ

としておく。

 

これには、いろんな階層があるだろうと思う。

 

  • 長期的なもの⇆短期的なもの
  • これまでのもの⇆これからのもの

また「段階」もある

  • 知る→活用する

目的は、事柄・事象の

  • 解決or改善

そして、忘れてはいけないことは

  • 自分そのものを(起こっていることも)楽しむこと

 

「在り方」というのは面白くて、これは基本的にNOWメタから始まる。

  • 今、こうありたい
  • 今、これが楽しい
  • 今、これが辛い
  • 今、これを直したい
  • 今、これを変えたい
  • 今、これを目指したい

など。

 

そして、私は、その今から未来に向かっていくために、「何をするか」を見定める(仮固定)ことが大切だと考えている。

 

そして、その「今」、ある事柄が起こっている原因に「過去」が関係している可能性がある。

 

その過去は無意識である可能性がある。または、意識したことがあるかもしれないが、日常的には気にしていないなど。

 

一つ、その無意識を意識化することで、「今」を"変えられる"可能性がある。

 

この"変えられる"は、

  • 生きづらい→生きやすく
  • 誰かを傷つける→傷つけない
  • 自分を楽しめない→自分を楽しむ

などの変容を考えている。

 

その動機のほとんどは、自分が当時「安心・安全」を守るためのものだと考える。痛みの回避か、快の獲得を目指したパターンだ。

 

その「過去」から「今」の連続性に気づくと、なぜ「未来」でそうなりたいのかが分かる。私の比喩は、分かりづらくて有名だろうけど、その連続性がないと「ケーキが食べたいのに羊羹を食わされる」状態が起こると思っている。

 

そこで「別に甘いもの食べられたんだからいいじゃない!」って考えもあるし、「あっ!以外とケーキ食べたいって思ってたけど本当は羊羹だったみたい!」や「あれ?私羊羹好きかも!」って偶然性のメリットもあるはずなので、何が良いとか悪いとか言いたいわけではない。

このメタする力があればそもそもいいのかもしれない。

 

【価値が信用と時間に流れていく中で】

信用を得るには10年、失うには10分なんて言われる。

 

周りの目を気にして慎重に生きていく、それでも「自分はこうだ!」と思ったときには、博打になる。

 

それが「共感」を生まなければ淘汰される。

 

自分を生きられない時代?

 

その主張にエビデンスがあれば、生き残れるのだろうか。

 

だんだん誰を生きているのか分からなくなりそうだけど、それが、価値になってしまったら自分を失ってでも価値を得にいかなければならないかもしれない。

 

そのミスを早い段階で減らすために対話がいるのかもしれない。

 

行きすぎてから、振り返って戻るのは大変だ。

その都度定期的に会話をして、自分をコミュニティのマジョリティにいられるように気を遣えってことだろうか(めちゃきもい)。

 

それで思うのは、めちゃ当たり前なのだけど、共感されている方に自分を寄せるのではなくて、共感を得られるストーリーを自分で紡げるようにすることだ。

 

そのための、対話であるといい。

 

そのために、過去・今・未来とひもづく自分を「在り方」というキーワードを手がかりに探っていく。

 

在り方について。

「在る」ということ自体は掘れない。「なぜ、在るのか?」の証明は究極の問いで不可能。

 

そうなると「方」の方が大切になると思う。「方」がもつ意味は

やり方

向き

分野

部分

などがある。

「自分が在ることとは?」は、自分の思う自分とは?でしかなく、「意味づけ次第」だと考えた。

 

その自分の思う自分を、思い直す・問い直すのに他者が不可欠だと思う。

 

人生はいつか終わる。

自分を楽しもうと思ったときには、右往左往仕切った後かもしれない。

信用の話とからめて、有限の時間(コスト)を、何にかけるのかは、常々考えられたらと思う。

 

「在り方」を考える有効性はあると思うのだけど、思うを越えられないなあ……。

 

そして、私がそうすると、自分の意味がわかって生きやすかったってことと(N=1)。

 

何がやりたいのか分からないっていう17から21歳の人の相談に何人かのったのとが、「在り方」へのこだわりに関係している。

 

どこで何をしたいか。

そこで何を実現したいか。

そこで何をどうやって実現するか。

 

ただのキャリア教育じゃね?

と言いたくなった方。

 

その通りですわな。

 

【ケーキが食べたいのに羊羹喰ってる】「認知的容易性」の話 - かならず幸せになれるいきもの