かならず幸せになれるいきもの

特別支援×ブリーフセラピー×アドラー心理学

106日目:【教師の仕事は測れるか?】みんな悩みながらやっている

雨に好かれるなあー。ハピペンです。

 

今日も子どもたちは、ほのぼのday。

 

図工2Hってのもあるかな。

楽しんで終わります。

 

前半の国語と算数が終われば、なんてことはなく終わるようだった。

 

教師の仕事は測れない

教師の仕事って測れないなあって思う。

 

評価しようがない。

 

いくつかのモノサシで考えてみる。

 

1.未来の子ども

私は「未来の子ども」が最終クライエントだと思う。

 

だから、未来の子どもが幸せに生き抜くために、必要だと考えられる力を必死に身につけさせようとするのが、学校の役割だと考える。

 

この役割を果たしているかどうかを測ることができれば、教師の仕事を測ることができるだろう。

 

では、幸せに生き抜くということは何か。言語化してみる。

たとえば、幸せに生き抜くっていうのは、ほとんど無限通りの自由だらけの世界の中で、自分なりに社会の仕組みに当てはまり、やりたいこと実現することである。

 

すなわち、幸せに生き抜くことを、生活の中での「生きやすさ」と捉えるならば、それは「適応のしやすさ」とも言い換えられるかもしれない。

 

そして、どんな人間が生きやすいか、適応しやすいかというと

  • マジョリティにタダ乗りして楽しめる

もしくは、

  • マイノリティでも自分をマネジメントして居場所を見出せる

 

こんな二つを実現できる力があると生きやすい。

 

ただし、自分のことだてかではなく、欲を言えば、その適応した居場所の中で「社会をよりよく作り変えられる力」もほしい。

むしろ、この先は、それこそ「社会をよりよくできる人」=生きやすい人」になっていくかもしれない。

 

だが、たった数年の教育が、その子をそう育てたって証拠は手に入れることができず、力の正体も抽象的(非認知能力)で、このモノサシは、あやふやなものである。

 

つまり「未来の子どもの姿」に自分の教育の成果を見ることは難しいと言える。

 

2.目の前の子ども

じゃあ、今目の前にいる子どものモノサシだったらどうか。

 

「先生!いい仕事してるね!」

そう言われたとしたら、その評価は確かか。

 

私は、イマイチだと思う。

 

そもそもの基準が甘い可能性がある。

 

たとえば「先生っていろいろなことを知っていてすごいですね」と言ってくれたとする。

でも、やっぱり、それは、その子のデータベース上であって甘い。

 

私は何にも知らない方だと思う。

苦しい。

子どもを騙しているような気持ちになる。

 

もしくは「感情ベース」で評価されると思う。

好み・好みでない。

好き・嫌いなど。

 

だから、このモノサシもあいまいだと思う。

 

3.管理職

教師を一番測ろうとする存在の一人かと思う。

 

けれど、その評価軸こそ、目的が不明瞭である。その観点が未来に適っているのか分からない。

 

「1」と同じ理由で、このモノサシもあやふやである。

 

たとえば、どれくらいの学力が身についたか、テストなどの点数で測ることもできるかもしれない。

 

けれど、それこそ、その点数が上がっていることが、未来とつながりがあるか分からないので、やっぱり却下。

 

4.保護者

もう一人の影響のある評価者。

 

「その教育は間違っている!」と声をあげる可能性がある。

 

ただ、それは「何故に?」と言いたくなる。

 

悪い教育はあるのかもしれないが、正しい教育はないように思う。

 

因果関係が見えない。

 

最悪の場合、それは、法律によって判断が下されることもある。

 

その点において、間違った教育はある。

ただ、やっぱり正しい教育はない。

 

正しい教育ってのは、そういう気がするだけだと思う。

 

教育ってのは、本当にキリがない。

 

5.自分

「自分」、これが、一番怪しいけれど、一番信頼できるモノサシでもある。

 

悪い教育については、他者の目がとても重要になってくる。

 

つまり「やってはいけない教育」については、である。

 

しかし「やらない方がいい教育」については、他者の目や同僚はあてにならないことの方が多いと思う。

 

これについては、良いも悪いもない。やってもやらなくてもいい。やってもやらなくても悪い。イーブンである。

 

ならば、どちらかというとやるべきだと思う。

 

他に、チームとしてやるべきことが提案されていないのならば。

 

言いたかったこと

言いたかったことは、教師の仕事っていうのは、これだけ、あやふやなモノサシで仕事をしているってことだ。

 

その中で、さも正解かのように、先哲の同僚や上司や保護者や目の前の子どもの姿や未来の子どもの姿が正解をショッピングバッグをぶらさげるかのようにブランブラン陽気にチラつかせてくる。

 

ただ、それは、チラついて視界に入っているだけで、正解でもなんでもない。

 

だから、

  • 悩んで当たり前だし、
  • そんなに、自分を否定する必要がない

ってことが言いたかった

 

「みんな悩みながらやっている」のである。

 

だからこそ情報が入ってこない。

これまでの経験を頼りに一人ひとりが暗躍している。

 

相談し合えばいいのに。

 

その風土がないとそれは起こらない。

学年にエースがいて、年上がこじらせている場合、なおのことそれは起こらない。

 

主任というようなポジションの人が、そのエースがいる前で決して弱さを見せないからだ。

 

やはり、この盤上に独特の構造があるようだった。

 

要は、エースか主任がいないと、風通しがいいということだ。

 

そして、私たちは無意識にそのぎこちなさ、違和感、負のエネルギー、嫌な予感、憎悪のような言語化できない感覚を感じ取り、そのコミュニケーションにチャンネルを合わせているのだった。

 

こういうときに思うのは、年を取るほど「自己保身」はしない方がいいってことだ。

 

自分を守ろうとした分だけ、チームが分解される。最悪の場合は、散らかすだけ散らかして誰も救われなくなる。

 

モノサシを更新し続けろ

そうなると、また違った見え方がするのだが、そもそも私も主任にペコペコしなかった。

 

そういう構造なら、それは、気に喰わないやつにカテゴライズされるのだろうと思う。

 

そして、周りはそういう姿を「お前何やってんだよ」と思うのだと思う。

 

ゾッとするけど、ものすごーくくだらない世界だ。

 

だから、下手をすると、私は「ミスれ」くらい思われているのかもしれない(また、ちょっと妄想がすぎるけど)。

 

ただ、苦しいのは、そうなるとなおのこと私は私のモノサシを更新し続ける。

それこそ、自分を守れるのは自分しかいなのだから仕方がない。

 

そうなると、さらに、私は、指示をあおぐでもなく、独走するしかなくなっていってしまう。

しかし、モノサシは更新されているから、なんとなく頑張れてしまう。

 

だから、やっぱり、私も悩んでいるが、その分相手も悩ませている可能性が高く、実際その可能性がある。

 

「みんな悩みながらやっているのだ」

 

そして、年度末になるころには、風通しも良くなっているのかもしれない。

 

みんな見通しがもてて、今年度の責任も果たし終えたころ、手放しで讃えあって、もう敵でも味方でもない状態に行き着くのだと思う。

 

さて「教師の仕事は測れない」って話。

 

ただ、だからこそ、工夫することはできるのかもしれない。

 

そのカリキュラムが相応しいかは、最後には信じるしかない。

 

教育っていうのは信仰なのである。

 

その教えが正しいとなった時点ですべての教育は宗教だ。

 

その教えを生かして生きていけるように。

その教えを自分にとって良いか悪いか判断できるように力をつけていけたらよい。

 

そんな中でも、未来を見据えること、目の前の子どもたちが笑顔であること、管理職も不安がないこと、保護者にもある程度理解が得られること、自分も納得していること。

 

究極的には、セーフティなカリキュラムは対話の中でしか生まれないし、未来に適っているカリキュラムかは専門家の知恵もいる。

 

測るとか測らないとかよりも、コミュニティの納得感が重要なのだろうなあ。と思う。

 

そっか、教育を測るには、考えを伝え合えばいい。ただ、それだけの話なのだなあ。