かならず幸せになれるいきもの

特別支援×ブリーフセラピー×アドラー心理学

194日目:わたしは少しは「うまい」らしい

生まれてから一番幸せだった日の翌日のハピペンです。なんとか、この忙しい中で式を挙げることに成功。冬休みを投資した「自作のプロフィールムービー」も悪くはなかったらしい。本当に3ヶ月半ほど絞りとられたが、よく乗り切ったと思う。のど元過ぎればってやつで、今では懐かしいくらいだ。あの日々すら愛おしい。そもそもの挙式までの最短感がやばい。これっぽちも猶予がなかった気がする。そのくせ、2週に一片「パセージ」にも顔を出しているので、超超超超貴重な土曜を一日それで潰しているのだから。でも、本当によかった。好きな人しかいない空間。心地よすぎた。二度とないかもしれないけど、ずっと胸に残って、この先一生、ピンチの時は、あの日を思い出せれば脳が喜ぶに違いない。そんな日を手に入れられたことが嬉しすぎる!!と初っ端から、関係ないことをつい書き出してしまった。

 

巡回相談

きちんと駆使することで、学校内やお家の方との連携を強め、その子にかかわる大人も、その子自身をも適切な、その子に合った指導によって、幸せにすることが可能になるかもしれないチャンスだ。

 

久しぶりのケース会的な時間は心地よく、懐かしく、ちょっと気持ちがハイに。

専門家からの学びは楽しい。そうした人のもつカウンセリングマインドも好きだ。どういっか角度で示せれば、みんなが動き出すか、そういうのを考えて策を練っていて素敵だ。盤上を俯瞰して、詰みに迎えそうな手を探る。

 

そんな中で、「わたしがうまい」という話をしてくださった。もちろんリップサービスというか、私へのケアなことも分かっているでも嬉しかった。この学校に来て、はじめて、支援的な振る舞いを誉められた。私自身は、自分にある支援的な振る舞いとそうでない振る舞いというのを分けているわけではなく、今年度集団を見るようになって、そういうのは薄れたのかな?なんて思ってもいたのだけれど、自然に残っていて、身についているようで、これまでの子どもたちに感謝したくなった。

このじぶんのもっているものをもっと信頼したいなあ。

 

支援のない学校

支援のない学校の弊害は、支援の見方・考え方で子どもについて語られない点だ。

個人的に今、パッと浮かんだのが、支援がいいのは「合理的配慮」があることだと思う。その子のために、その子の周辺にあるものを生かして、過ごしやすく学びやすくなってもらおうってものだ。

これのいいところは、「その子は悪くない」という前提を作れるところだ。つまり、大きな枠組みで言えば、子どもの問題とされるような行動を「環境因」で捉えて、解決志向ベースで考えることができるということ。

 

これがないと、子どもの問題行動は、その子自身か親かといったものの問題とされ、いかに「良くなさ」を伝えるかというよな話し合いになってしまいがちだ。

 

この先にあるのは、下手をすれば学校不信である。それならまだいい、学校に行かなければいいだけだ。問題はさらに下手をすると人間不信にもなりかねないというところである。

 

問題があると見受けられる子は、その子もまた困っている子である。「ちゃんとしなさい!」と思ったとして、その子こそ一番「ちゃんとさせてほしい!」と思っているのだから、それは、周りの大人たちの仕事なのである。

 

「支援がない」ということは、「配慮しなくていい」という文脈に置き換わりがちで、自分以外に変わることを強いる危険性があって脆い。

一部を肯定するために、一部を否定するシステムは危険だ。私たちがシステムとして君臨して、それに適合しないから問題視するのではなく、その子がそれで幸せになり得るのかを検討して、いかに自分は悪くないかなんていうどうでもいいことは語られない、人思いの場所で働きたいわね。