かならず幸せになれるいきもの

特別支援×ブリーフセラピー×アドラー心理学

【G.Wの振り返り】読書編「ブリーフセラピー」【その2の1】

G.Wシリーズ二つめ。これはちょっと頑張りすぎてしまっているかもしれない。そもそも240時間を1日で振り返ろうっていうのが無茶なんだ。本当にハピペンはアホだなあ。

読書編は第三弾まで。

  1. ブリーフセラピー
  2. 純文学
  3. 教育書

この3つで書く(つもり)。

読書編

毛色。毛色が気になる。和やかなあの人のも、ツイッターやブログの人たちのも、そして、自分のも。それこそ、稲のような柔らかい温かい色味だといいなあ。ふわふわそうなのがいい。

 

そうなると、自分が触れていたい毛並みを求めていた方が幸せだ。ところで、教育の難しいところは、自分の幸せではなくて、教育を受ける側の幸せを願って自分の在り方を考えなければならないというところだ。

「自分の最大幸福=児童生徒学生の最大幸福」ではないところが最大の壁。

 

ただ、前にフリーランスの人が

「メンタルは収入に直結するから、嫌いな人とは仕事をしない」

と言っていたように、

教職の場合は

「メンタルが子どもの成長に直結するから、わざわざ苦手な情報や人に長時間触れない」くらいの意識はしてよくて、少しくらいは逃避してもいいのではないかと思う。

 

(今、気づいたけれど「つながり」と「逃避」は表裏一体かもしれない)

 

先生は真面目だ。「インクルーシブが大事だ!」と思えば、それに矛盾がないように徹して背中で学ばせられるようにと努める(自分のことです)。そして、特にフルインクルーシブなんて思っていれば、自分がフルアウトクルーシブ(本当は、「エクスクルーシブ」)だったとしても、こちらは受け入れようという態度を考えて無茶をする(無茶の時点で違うことにその時は気づけない)。

 

そうして擦り切れていく。

 

こういうのは、完璧主義とか、ユートピア・シンドロームとかって、自分にとっても周りにとっても苦しい考え方だ。でも、ついそうなってしまう人はいる。ついそうなってしまう人たちはSNSから降りていく。真面目というよりバカ真面目だからかもしれない。

 

「私はあれが嫌いだ」

「私はあの人が嫌いだ」

本当はそういう感情をもっていいし、そういう自分でもいいのだと思う(それを表出するかは別として)。ただ、私はこの諸刃も嫌いなのだと思う。「=あなたも嫌われるのは仕方のないこと」というのが気になっているのかもしれない。その前に話して分かり合えないか?そういうステージを作りたいと思ってしまう。切る前に話したり、また戻りたければ戻れたり、といった風に寛容であることは難しいだろうかとモヤモヤしている。そして、また、そういう自分も人を切る(ここではフォローを外すくらいの意味)。

 

インクルーシブは、社会のルールであって、人のルールでないというようなところを多くの人が理解して実践するにはまだ時間がかかりそうだ。

全員が全員と手を繋ぐのは本当は難しいんだ。だけど、社会に必ず手を繋いでくれる人がいるという前提や安心感が、ひとまずインクルーシブの目指すところだと考える。

その中でも、私だけは全人類(公人としては当たり前)、何があっても受け入れますは、ちょっと苦しい(そもそも、それが受け入れていることになっているかというまた別のステージの課題がある)。だから、自分の世界くらいは、自分で管理していいんじゃない?ってことが言いたい。

 

これは、また、ウダウダ書いた「twitterについて」につながるので、ここまでにしておく。

 

本題に入ろう。

そういうわけで、私は、自分の毛色に合ったものを信じて取り入れたいなあと思った次第。

 

ああ、でも、これも少し卑しいのかもしれない。結局、土俵が少し違って、利害関係が少ない関係に依存しているだけかもしれない。特別支援でたまに言われる「異学年は優しい関係」という話に似ている。そして、それもそうだとも思う。私は、思えば「同い年」が苦手だ。そう語ってしまうことはとても不安だけれど、苦手だと思う。そして、そう思っている似た感覚の異学年の人たちと仲良くなれているのかもしれない。なんでだかは分からないけれど。でも、それも、それで、いい。「人はなれないものには、なれない」と最近思うからだ。あとそもそも、ハピペンに慣れてもらうのに6ヶ月から11ヶ月かかるのだと、これも最近思う。

 

そんなわけで、G.W中は、3つの毛色に影響を受けて本を読んだ。

 

ブリーフセラピー

G.W中に「本格的なもの()」を読みたいと思っていた。そう思うのは、これまでをピンチを救ってくれたのは、分かりづらい理論書だったからだ。そこに書かれていることが一番実際の役に立った。言葉を解釈して、考えて行動に生かそうとするからかもしれない。

 

休み中、全部ではないのだけれど、少しずつ目を通したのは以下の2冊。

 

変化の原理〈改装版〉: 問題の形成と解決 (HUPセレクション)

変化の原理〈改装版〉: 問題の形成と解決 (HUPセレクション)

 

 

「変化の原理」は、「なぜ『変化』が起こるのか」を解き明かして、意図的に変化を生むための理論を解説したもの。読みにくいけれど、威力がすごい。鍵になるのは「言葉の使い方と捉え方」と言えるかもしれない。

ここでも

「いかなる問題も、それをつくりだした同じ意識によって解決することはできない。」

アインシュタイン

この名言が出てくる。

 

ここでもというのは、「U理論」でも出てくるため。

図解入門ビジネス 最新U理論の基本と実践がよ~くわかる本

図解入門ビジネス 最新U理論の基本と実践がよ~くわかる本

 

 

変化の原理では、言葉を扱うときの「群(グループ)」と「論理階型(クラス)」の混同によって、問題は起こり、また混同があるからこそ解決も生み出せるというようなことが書かれている。群論と論理階型論が重要ということ。

 

とりあえず、話を進めることで理解できると信じて進める。

変化の原理では「群論」と「論理階型論」を元にした変化を扱っており、その変化を大きく二つに分けている。

それを「第一次変化」「第二次変化」と呼ぶ。

 

「第一次変化」

第一次変化は、

ある一定の行動様式の内部でのある行動から他の行動へ移る変化を言っている

「様式」が鍵である。様式と言われると冠婚葬祭が思い浮かぶので例に出すが、

  • 「結婚式での誓いのキス」
    一定の行動様式では「する」ことになっている。それを「しない」とすれば、問題になり、その「しない」が「する」になれば問題は解決したことになる。この「する」と「しない」の変化は、「ある一定の行動様式内」での変化なので、第一次変化である。大抵の問題解決はこの界隈をうろつく。それで解決できないことが問題とされることが多い。にも関わらず、解決の手立ては「ある」に対して「ない」を宛がったり、「ない」に対して「ある」を宛がうことが継続される。それは、問題を問題として維持したり、むしろ、より問題を大きくしたり強めたりする。この悪循環から抜け出るのに「言葉」が鍵を握っている。

この「ある問題は、それを解決しようとするから問題になる」という考え方が面白い。

ある環境下では問題というものが純粋に元の小さな困難を変えようとする誤った努力の結果から生まれるということである。

P57

上記の引用は、ブリーフセラピーの基盤となる考え。

 

第一次変化をもう少し別の言葉でも補う。

ある基準からの逸脱がその反対の行動をすることで元の状態に戻るという場合

P57

このパターンに当てはまるものが「第一次変化のクラス」と捉えると分かりやすい。

  • 不登校であれば
    「登校すること」という風に
  • その原因が友人関係の不和であれば
    「友人関係」の不和の解消という風に

反対の行動を宛がって解決できる問題は「第一次変化のクラス」なのだ。

この「第一変化」の考えで、解決できない場合「第二次変化のクラス」で解決を考えると解決につながる。

 

どのような考え方が第一次変化への誤った対処(第二次変化のクラスで考えるべきなのに第一次変化の考え方)に陥るかも示されている。

1.それは問題ではないと否定することによって解決しようとする誤り。即ち行動が必要なときに行動しない誤り

2.実際には変えることが不可能かもしくは存在しないような生活上の困難、例えば世代間断絶や全人口に占めるある割合の酒飲みの数、について変化させようと繰り返し努力することによる誤り。即ち、とられるべきでないときにある行動がとられる誤り。

3.論理階型上の誤りが犯され、「終わりのないゲーム」が確立されてしまう誤り。これはより高い次元の論理階型に属する変化が必要なときに第一次変化が何度も試みられることによるか、反対に第一次変化が適当な時に第二次変化が適用されるときに起きる。(中略)即ち間違った論理階型での行動をとることによる誤りである。

P60

「高い次元の論理階型に属する変化が必要な」とあるように、言葉を使いながら、異なる論理階型を意識して解決を考えることができると、問題は解決により近くように思う。

 

「上位概念の目標」という言葉を教えてくれた工藤先生を思い出す。そして、そのためには「手段の目的化」に気をつける。「何のために」と問うことが、「論理階型」を行き来して解決に向かうために有効なのだと思う。

 

ちなみにこの本でもブリーフセラピーが扱われていた(P88-89「問題は作られる」の項)。驚いた。

学校の「当たり前」をやめた。 ― 生徒も教師も変わる!  公立名門中学校長の改革 ―

学校の「当たり前」をやめた。 ― 生徒も教師も変わる! 公立名門中学校長の改革 ―

 

 

そして、論理階型の異なる次元による解決、「第二次変化」について。

 

「第二次変化」

第二次変化は、

第一次変化が、システムの内側で生じ、システム自体は不変の変化とすると、

第二次変化は、「システム自体の変化」である。

P27参照

本書の中では、眠っている時の夢を例にしている。たとえば、悪夢を見ている時に、人はその世界で自由自在に行動できるとしても、決してその夢から逃れられない。この「夢の中での自由自在な変化」がシステムの内側で生じている変化である。即ち、第一次変化である。そして、悪夢の外に出るには「眠りから醒める」という変化を得ること。夢のシステムの一部ではなく、全く異なった状態への変化。この種の変化を「第二次変化」という。

 

問題に対して「第二次変化」を意図的に起こせるならば、あらゆる問題は解決できそうだとワクワクする。それをどう起こすかというのには、まだ本書を読み込まなければならない。

(自分が覚えておくために、いくらかは書いておくけれど、もし読んでいる人がいたら頭を疲れさせてしまって申し訳ない。)

 

この本のはじめの方で、「群(グループ)」と「論理階型(クラス)」について書かれた項がある。「群」の条件は四つ示されており、この四つに当てはまってしまう限りは、それは内部での変化であり、解決に至らない可能性がある。しかし、その要素をメタしてどの条件に当てはまっているかを捉え、四つのうちのどれかに移行することでも、階型は一段上に上がり、「メタ位置」を取ることができ、「第二次変化」につながり得るといったことが書かれている(ややこしくて、自分が読み取れているか自信がないのだけれど、恐らくそう)。これが技法になったうちの一つが、ブリーフセラピーやナラティヴセラピーで使われる「リフレーミング」である。

 

また、「第一次変化」と「第二次変化」は「お互いに補うもの」でもある。「第一次変化」がなければ「第二次変化」も存在せず、お互いに有効な概念的枠組みを提供し合っている。

 

補足として

第二次変化が常にその本質において不連続、もしくは論理的に飛躍するような性質をもつことを考えるならば、第二次変化を実践的なところで遂行することは、非論理的で逆説的な外観を呈すことを期待できる。

P28

この感覚も頭の片隅に覚えておきたい。これは、それだけ、「第二次変化」の解決策は、受け入れにくい可能性がある。青天の霹靂となるか、目から鱗となるか。はたまた馬の耳に念仏になる可能性がある。そのために、ラポールの形成であったり、コンプリメントであったり、介入を受け入れやすくなるような、意識も必要だということになる。

 

第二次変化についても四つもポイントでまとめられている。

1.第二次変化とは、第一次変化の側から見て解決だと見えるものについて適用されるものだということである。第二次変化の側から見ると、この最初の「解決」が、実は問題を形づくる要石になっていることがわかるからだ。

これは、分かりにくい。そのせいか、深いと思ってしまった。

つまり、第一次変化における「問題」に適用してはダメということだ。あくまで、第一次変化における「解決」に適用するということ。最初の解決策に対して別の論理階型から働きかけるという風に考えると分かりやすいかもしれない。たとえば、そうすることで、ますます意固地になるというような。つまり、その解決について考え直さなくてはならないということだ。よくある、「その子自体を原因」として対処するのではなく、「環境」に働きかけるようなニュアンスにも似ている(実際、ブリーフセラピーでは、別の論理階型の解決とする場合、「コミュニケーション」に注目する)。

 

2.第一次変化というものはいつも人の常識というものに適っている(例えば「同じことのくり返し」策のように)ものだが、一方、第二次変化は、普通、奇妙で予想外で常識外れのものにみえる。第二次変化の中には人を幻惑させるような逆説的な要素が存在する。

これを上手に設定できるカウンセラーは、本当に言葉の魔法使いのようだと思う。ただ「同じことの繰り返し」で解決できないことには、敏感でありたい。たとえば、朝7:30に電話をし続け、結局、一年中不登校だった子どもは、一年間で何が変化したのかと不安になる。誘発的に、それによって、どこかしらのコミュニケーションや状況の捉え方が変わって「第二次変化」が起こっていることを祈る。バークレーの治療外要因を信じて、その辺りはモヤモヤしつつも保留にするしかない。

 

3.第二次変化の技術を第一次の「解決」に適用するということはその状況を「今ここで」という現在の文脈の中で扱うということを意味する。これは、いわば事の結果を扱うということであって、仮定された原因を扱うのではないということだ。そして、問題の聴取は、何についてなされ、何故という形ではなされない。

これも重要。特に大切なのは「それによって実質的に何が困っているか」といった点なのだ。たとえば、主訴を現実的なものにするということ。ユートピア・シンドロームでは、困る。そうした思いによって、実際、今何が困っているのか。そうしたところに注目できると良い。これは「スケーリング」や「スターティングクエスション」などの技法とつながる。「『何』について聴く」という考え方は目から鱗。

「解決志向」、「SFA(ソリューションフォーカストアプローチ)」につながる考え。

「問題は今起こっている」し、「今何が問題か」の方を扱った方が、解決につながるのは改めて考えると当たり前なように思う。そして、これと「アドラー心理学の子育て」の「心理的迷惑と身体的迷惑」は相性がいいかもしれない。介入の際に問題の捉え方をこの「迷惑の論理階型」を変えることで、行動の変容を促せるかもしれない。私たちは「ない問題(未来に想起し得ること)」や「その人にとって問題でないこと(文化や慣習、一般的にマジョリティ的にそうだからということ)」を解決しようとしすぎるということだ。「問題は問題だけ」のはず。それにもかかわず。

 

4.第二次変化の諸技術を施すことは、解決への努力のもつ自己回帰性のもたらす逆説の罠へ陥ることを阻止するということであり、状況を他の枠組みへ置き直すことである。

また、分かりにくい表現だけれど「解決しようとしている」という自己回帰性。つまり、問題に応じた「解決」こそが、「私は間違っていない。ルールに従っているのだから問題を複雑にしているわけがない」にもかからず、それが問題を深刻化するというループの罠の阻止だ。

つまり、ブリーフセラピーで散々言われる「悪循環を断つ」ということ。こちらは「MRI(メンタル・リサーチ・インスティチュート)」の考えにつながる文脈。

 

 

そして、そもそも「第一次変化」か「第二次変化」かの「階型付けの誤り」に気をつけたい。その誤りは、以下の二つのパターンで起こるとのこと。

一つは、特定の性質を要素に帰すべきところをクラスに帰してしまうか、その反対の場合(クラスに帰すべきところを要素に帰す場合)だ。

今一つは、クラスと要素の区別を無視し、それらがあたかも同一レベルのものとして扱うところからである。

P44

 

ここまでで、「変化の原理」の半分くらいまで読めた。残り半分をどこかで読み、もう少し理解を進めたい。

 

もう一つ「人間コミュニケーションの語用論」という本にも目を通していた。

人間コミュニケーションの語用論―相互作用パターン、病理とパラドックスの研究

人間コミュニケーションの語用論―相互作用パターン、病理とパラドックスの研究

 

こちらは、分かっているようで分かっていない、しかし、有効だと感じている「パラドキシカルアプローチ」について学びたいと思って手に入れた。たとえば「もう勝手にしなさい!」と言われた子どもは「勝手にしない」ことの方が多いという実感がある。どこの家庭でも起こっていることだろう。「来ないで」と言うと「来る」とか、「して」というと「しない」とか。イザナギすらしてしまった「見ないで」で「見てしまう」というようなことだ。このパラドクスを生かすと問題を解決できることがある。

 

これも引き続き読んでいく。

 

イザナギが出てきたのは、連休中に古事記が無料化していたため。

古事記 (まんがで読破)

古事記 (まんがで読破)

 

 

 そんなわけで、G.W中のブリーフセラピー系の本の話はおしまい。

やっぱり、読んでいて純粋に楽しい。だから読む。

じゃあ、なぜ、読むの?あなた何にも別に困っていないでしょ?とつっこまれると少し困る。

でも、すかさず「私は、いろいろな言葉を紡ぎ語ることで、誰しもに生きやすくなってほしい」という思いがポッと浮かびあがった。