かならず幸せになれるいきもの

特別支援×ブリーフセラピー×アドラー心理学

祭りのあと(朝は死後の世界について考えていた)

フェスは、どうなることやらというか、なるようになれというか、知るか……って感じで保留にしまくりだった。

ただし、昨日言ってた出来なかったこともやり(輪になって行事への思いを話すこと)。

 

その中で500人が来るのを目標にしたい!と言った子がいた。全校児童の数。私は無理じゃないかな、と正直思った。おそらくみんなが思ったかな。もちろん、お家の方も来るので、全校児童が来なければならないというわけではない。

 

よし!!

そうして、全員の思いも入れた。お礼を言う子もいたし、ここまでのいろいろを振り返りつつもお客さんも自分も楽しめるようにという願いも語ってくれた。私は「気持ち」だという話をした。こちらの気持ちを込めれば楽しんでもらえる、と。

 

後は蓋を開くしかない。

開幕!!

 

怪我についての多少の不安があったが、「もし〜」「〜かも」ばかりでは、楽しいことができない。注意しながらやるしかない。

 

それぞれの分担で、それぞれが頑張る。

あるグループは、そのグループの担当というよりは、ハイパー受付みたいな、忙しさの中をさばいていた。

 

直前になって、寒いからドアを閉めるとか、集客の問題で場所をどうするかとか、なんかいろいろぎゃーぎゃーやっていたが、来た人はみんな楽しんで帰ったようだった。特段、一年生が「楽しい!」って言ってくれたことが嬉しかったそうだ。6年たちがつくるお店。そこで遊ばせてもらえたっていうのが嬉しいのかな。そういうニーズかあるってあまり思っていなかった。1年生は、6年生が準備したものだったら、なんでもしてみたいし、楽しいのだ。だから、内容によって、お客さんが来るとか来ないとかは、あまりなかったのだと思う。そうして、彼らは報われたのだと思う。

 

そうして、閉幕。

片付けのことだとか、気に食わないこともあったけれど、子どもたちのストーリーとしては、「片付けも素早く終わって」とかってなっていたりもする。あーあ。なんてことか。まあ、見方ってそれぞれ本当違うなあと思ったし、当事者の彼らにしか分からないことってあるのだなあと思う。

 

自分たちでよくやっただろうなって思う。葛藤もそのまま味わっただろう。今回の彼らは、それでも上手くいかせることができるということを学んだ。

 

今回学んで欲しかったのは大きく二つ。

一つは「話し合いの葛藤はそう簡単には終わらないということ」。嫌な時間とも思えるような時間が何時まで続くんだろうと苦しみながら話し合いは進む。それを乗り越えたというところに意味があると思う。

もう一つは「多数決でなくとも物事は決められるということ」。本当に恐ろしいことをしたかもしれない。少数を切らないためにどうするか考えさせ続けること。そして、意思の揺らがない彼ら(意固地か)。それでも、着地をすることはできる。葛藤を耐え抜いて、時間さえあれば。

 

その後、ある子どもが避けられているのではないか、とタレコミがあり、5・6時間目に暗躍して、解決する必要があった。悪い方に崩れることなく解決できた(と思う)。

 

発端は「生きる価値がない」という言葉だ。

 

図書館で詰め寄って当事者に話を聞き、頼れそうな一人をひっかけ、散歩と称して影響力のある子と話し、遠足と称して5人を駆り出した。直前まで、もう許せない、無理と言っていたくせに、許す彼ら。「氣を入れろよ、伝えたいこと本気で伝えてみ」と促して、それでいけた。いけると思えた。本当に氣が入っているか、氣を通わせているかどうかで関係は変わる。180度の変化とは、意外と起こるものだ。故に脆くもある。それは、51VS.41で揺れているからでもある。また転ぶこともあるだろうと思う。でも、そうしてその瞬間瞬間の本当を積み重ねて、本当に変わるのを気長に見守っていくしかない。クラスは変わる。これから、もっと上向く。

 

また、明日から明日をはじめよう!!

と思う。

 

この日は、職場の信頼できる人たちとの飲みの日でもあった。途中眠くて眠くてたまらなかった。休まらないまま、明日へと雪崩れ込む。

 

死後の世界について

確かデーケン(生と死の準備教育の人)だったかな。

「あると思ってないより、ないと思ってある方がマズいので、あると思っていた方がよい」みたいなことを言ったらしい。面白いなあと思う。

 

もしあったら、私は「いいなあ」と思う。

この世界と違うクラス(階層・論理階型)にある世界があって、双方分かりえないことはあるが、それで成り立ったんだなあという仕組みに安心を感じるからだ。